スポンサーリンク
You can translate this site. Please select your language!

【新紙幣】いまさら聞けない「津田梅子」【5千円札の肖像画】

新紙幣
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/津田梅子
スポンサーリンク

新紙幣のデザイン発表を見て…

学がないものですみません…

初めて聞きました「津田梅子」氏の名前…

 

せっかくなので、この機会に覚えようと、いろいろ調べてみましたよ!

 

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク

男尊女卑の考えが蔓延る中、女子教育の重要性を説いた教育者だった

津田梅子氏はわずか満6歳でアメリカに留学した才女でした!

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/津田梅子

生年 – 元治元年12月3日(1864年12月31日)
没年 – 昭和4年(1929年)8月16日)出身地 現在の東京都新宿区南町
父が幕臣だった。

 津田梅子氏の超略歴

明治4年(1871年)に、父が北海道開拓使の嘱託となっていた時、開拓使次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、梅子氏の父は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させました。

同じ年に、岩倉使節団に随行してアメリカへと留学しました。

当時、岩倉使節団に随行した5人のうち最年少の満6歳でした。

帰国したのは、明治15年(1882年)11月でした。

1871年の12月にワシントンに到着してから、1882年の11月に帰国するまでですから、約11年ほどアメリカに留学していたことになります。

6歳から11年と幼少期に長期間英語の環境に置かれたため、日本語を忘れるほどだったと言います。

帰国してからは、父が梅子氏の通訳をしていたと言うことですね。

帰国後も男尊女卑の風潮が蔓延る日本では女子が重用されることも無く、いろいろ有ったようですが、伊藤博文と再会し、伊藤博文への英語指導と通訳のために雇われて伊藤家に滞在した。

その後、明治18年(1885年)には伊藤博文に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。

明治21年(1888年)には、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、色々有った後、再度の留学として明治22年(1889年)7月にアメリカに渡る。

2度目の留学では、フィラデルフィアで生物学を専攻し、カエルの発生についての論文を書いている。

その留学を1年延長した際に、日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行った。

大学からはアメリカにとどまり学ぶことを勧められるが、明治25年(1892年)8月に帰国した。

帰国後は、女子学校で教師として働くが、当時の女子学校では「行儀作法」の延長となる女子教育が主流であったが、アメリカ留学の経験から、女性にももっと勉学の自由の扉が開かれるべきと「 女子英学塾」を開校した。

当時、教育方針への妨害などを受けないように各方面からの資金援助を断り、梅子氏や友人たちも無報酬で運営を続けていたが、学生の増加やそれに伴う講師の増強、学舎の確保など資金繰りは大変苦しかったようです。

そんな努力の賜で新たな開かれた女子教育を根付かせたのです!

戦争戦禍で学舎は焼け落ち紆余曲折がありましたが、女子英学塾は津田英学塾と改名するも校舎が無い状態となりました。

その後「津田塾大学」として、正式に落成・開校したのは、津田梅子氏没後19年もたった後でした!

スポンサーリンク

日本婦人米国奨学金制度を設立した!

2度目の留学の最後の年に、日本女性留学のための奨学金設立を発起し、

日本の実情を訴える公演などで、なんと寄付金8000ドルを集めた!

1891年に「日本婦人米国奨学金制度」を設立し、帰国後にこの制度を利用し、計25人の日本女性をアメリカに留学させた。

第一号受給者として1893年に渡米した松田道は、1922(大正11)年に同志社女子高等学校校長となった。